沈没する日

見てて分かるように僕は遅筆である上、3男のブログ執筆者が増えてきて必然的に人のを読んでから自分のを書き始めるという順序になってしまう。同じサークルで、同じ立場にいる奴らであるから内容的にもさほど変わらない。そして皆そこそこ更新頻度が高いので俺も書かねばならないという脅迫観念に駆られ、書き急いだ結果、内容が似たり寄ったりだったり日本語が崩壊したりという余りいい事が起こらず、ついったで独り言を並べることに逃げるようになるというのが最近の状況である。そんな3男ブログ連盟を見ていると、僕たちは貴重な大学生活を大きく無駄にしているのではないかという疑問が、元々あったとは言え改めて強く感じるようになるのである。

グリーク ラブは人の時間は持っていくわ女は可愛くないわ金はかかるわロクなことがない団体であるが、人間は真面目で出来た奴が多く居心地のいい場所である、と思っていたが、最近は人間性すら疑わしくなることが多い。といういつものゆとり批判によくある書き出しである。近頃の新入生は日本語すらまともに喋れず、dgや周囲が笑っているその中に強い失笑と失望と絶望が混じりこんでいることに気づかず、自分は許しを受けた、それどころか自分は笑いの源泉となっていて殺伐とした雰囲気漂うボイトレにひとすじの光を差し込んだ勇者であると勘違いしているアホのように見えてならない。あの場で周囲が笑うことは悪ではなく、事実和みのひと時を作ることは大切であり、また笑う空気でもあると思う。問題はアフターケアが足りないことであり、上はゆとりを甘やかしすぎていることを反省しなければならない。礼儀に厳しいところであれば、さーせんは言うまでも無く、ここんとこのボイトレは全て死亡フラグが立つ。

ここの団体は上下の仲がいいことを謳いつつ、究極的な目標の達成のためには(この文脈での意味での)体育会系のノリが必要であるという矛盾を抱え、うまく両立できないでいる。上下共に多くの人間は「たかだか一年二年の違いで偉い偉くないは決まらない」と考えているきらいがある。実際その通りと言えばその通りなのだが、誰もが4年間しかいないサークルにおいてキレる側がいないとゆとり化は物凄い勢いで進行する。ゆとり実験世代が大学生となり始めたここ数年でその風土というか体質は甘く変化していて、僕らもそんな中で育った。転換の完了期にギリギリ引っかかったようなもので、あおk、krsw両キャプテンの存在は時代が僕たちに残したひとつのメッセージなのかもしれない。

こうなった原因というと大学合唱団の衰退から、団体の存続のために新人の引き止めを図らなければならないプレッシャーというのが大いにあると思うのだが、そもそももう流行らない趣味であり、無理に時代の流れに迎合して団体、人間、音楽のレベルを下げていくぐらいならいっそのこと名誉の戦死を遂げてしまうほうがいいのかもしれない。時の流れに身を任せるとはそういうことだ。応援団がいつまでたっても応援団でなくてはならないように、時代錯誤なら時代錯誤のまま滅びていくのが男というものだろう。

4年はもっと神であってもいいと思っている。鬼と仏は紙一重であり、上に立つ者は両面持ち合わせていなければならないが、無理なら学年でどちらもいればいいのだ。ということで幹部には大いに期待している。原稿集めごときが言っても説得力はない。あと今回のエントリは俺がやる気を出したことを示すのではなく、今の3男のために101だけは成功させたいという意味で書いただけだ。

「聴く側のことも考えてください」とは言葉自体は大いに賛同できるのである。